鳴海 理枝

学びはいくつになっても

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最近、23歳になる息子が本を読んでいて、とても新鮮です。
というのも、彼は学生時代は大の勉強嫌いで、
夏休みの宿題はもちろんやらないし、
「もう勉強したくないから」という理由で大学に行かず就職した位だったからです。

 

むしろ、社会人になってからの今の方が、

自主的に勉強したり、難しい資格試験を受けたり、自己研鑽に励んでいます。

 

ちょうど最近読んだ本の中に、
画一的な学校教育に疑問をもった作者が、
教育の歴史を紐解きに、過去への冒険に出るというものがありました。

 

著者が冒険に出るきっかけとなったのは、

「なぜ学校に行かないといけないの?」という子供の問いに答えられなかったから。

 

過去への冒険に行き、過去の哲学者たちの教育思想を学ぶことで、現在の教育体制のルーツを探る。
結果分かったことは、

・学びとは本来、「学びたいから学ぶ」はずなのに、

 学校は、それを「教わる」という受け身のものに変えてしまった

・子供たちは、教師の監督と指導のもと、学ぶ自由が奪われてしまっている

といったものでした。

 

著者はこうも言っています。

もっと学びは自由でいいし、楽しくあるべきだ。
教育(教え、育む)ではなく、学育(学び合い、育み合う)という言葉に言いかえたい。

現代社会において、学びの意義は、

経済的な成功ばかりではなく、「人間にしかできない仕事」を探求し、地球全体を良くしていくこと。

そのためには、生涯にわたって「ラーニング」と

「アンラーニング」(これまでに学んだものを捨て去り再学習すること)

を繰り返しながら探求を続けるべき。

まさにその探求の場・コミュニティが新しい学校の在り方だと。

 

私自身もそんな言葉に非常に共感するのですが、

息子を見ていると、まさにこの言葉を体現して生きているように思います。
彼にとって、学生時代は「学びたい時」ではなかったし、

きっと、学校が教えることは「学びたいこと」ではなかったのですね。

 

私も、そんな息子を見習って、

常に自分の学びの意義を探求することをやめず、

この先いくつになっても「ラーニング」と「アンラーニング」を続けていこうと思います。