東 周平

「小犬のワルツ」≠「小犬がグルグル回ってる曲」

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東(アズマ)です。

楽譜を見ずに演奏できるようになることを、「楽記する」と書いて「暗譜する」と言いますが、あくまで覚えているのは「曲」であって「楽譜」ではないと常々思っています。

曲と楽譜の関係は、例えるなら「道」と「地図」の関係に似ています。
「道を覚える」ために「地図を覚える」人はかなり特殊な人でしょう。
道を覚えるときには、「ここにはこんな建物があるな」「この角を曲がるんだな」「ここの信号を渡るな」「ここから見る風景はこんな感じだな」……といったことを考えるでしょう。
あるいは、「体が歩き方を覚えている」ような感覚がある人も多いでしょう。

これと同じように曲を覚えるためには、「ここにはこんなメロディがあるな」「ここでコードが変わるんだな」「ここで調性が変わるんだな」「ここを引いている時はこんな気分だな」……といったことを考えますし、
あるいは「体が弾き方を覚えている」ような感覚もあります。

さて、ショパンの作曲した「小犬のワルツ」という有名曲があります。
グルグル回るような音型を「小犬が自分の尻尾を追いかけてグルグル回っている様子を表現しているのだ」と言う人がいて、実際これは間違っていないですが、演奏するにあたっては、この理解では足りないのではないかと思います。
「ほら、小犬がグルグル回ってるよ!」と言われてどう思うでしょうか。
「元気だなあ」「そうですね」「可愛らしいなあ」「アホやなあ」「それがどうかしたの」
としか思わないのではないでしょうか。
(音楽を聴いて涙を流す人はいても、小犬がグルグル回ってるのを見て涙を流す人はいないでしょう)

聴く人の心を動かすのは、小犬がグルグル回っているという「風景」ではなく、それを見た時の気持ちです。
あるいは風景を見て、何かを思い出したり、想起したりするから、感動するのです。

例えば、風鈴の音を聞いて感動する人はいませんが、
風鈴がなっているのを聞いて、帰省する度に歓迎してくれた祖母の家に毎年風鈴が掛けられていたなあと思いだした……といったような背景があったらどうでしょうか。
何か風鈴の音に思い入れがあるならば、そこに心動かす何かを見出しても不自然ではないでしょう。

話を小犬のワルツに戻します。
ショパンは小犬が回っているのを見ていた時、小犬のワルツを作曲していた時、
何を感じていたのでしょうか。

小犬のワルツは、ショパン最愛のジョルジュ・サンドという女性と過ごしていた際、
サンドが小犬を見て「あの様子を表現してみてよ」と言って、弾いて見せたのが元になっていると言われています。(ショパンのことなので、即興的に弾いた上で、楽譜を残す時は更に手を施していると思います)

病で臥せがちだったショパンは、その小犬を見て何を感じたのでしょうか。
元気な小犬に比べて自分と言ったら……と気が滅入っていたかもしれません。逆に、自分の代わりに元気に走り回ってくれているように感じて一層微笑ましく思ったかもしれません。あるいは、(正確な作曲時期はわかりませんが)サンドと別れてしまった後、この曲を手入れした時に、サンドと過ごした穏やかなひと時を思い返していたかもしれません。

つまり、小犬のワルツは「小犬がグルグル回っている曲」ではなくて、「それを見た/思い出したショパンが何かを感じた」作品で、共感したり感動したりするのは、小犬に対してではなく、それを見ていたショパンに対してなのです。

では、この文章では1つ問を投げかけて結ぶこととします。
Q. この文章は何を伝えたかったのでしょう。
(単に「小犬のワルツ」≠「小犬がグルグル回ってる曲」ということでしょうか)