投稿者: shigyo_user

人に何かをした側の方が、してもらった側よりも、その意味を重くとらえている

 

 

 

 

 

 

 

今回は、

「人に何かをした側の方が、してもらった側よりも、その意味を重くとらえている」

ということに気付いた経験を、卑近な失敗から書きたいと思います。

一昨日、私の母からの果物が部屋に届いたのですが、

忙しさにかまけて、連絡とお礼をするのを先延ばしにしていました。

昨夜遅くにメールでお礼を伝えたのですが、

今朝になり、母が「連絡が遅い」と少々怒っていると、

姉から聞いたのです。

当初、私は、一日くらい連絡が遅れても大したことはないだろうと考えていました。

しかし彼女にとっては、それは失礼な行為に当たるようだったのです。

すぐに電話をして謝り、彼女も怒りがおさまったようですが、

ここで私が学んだのは、

「人に何かをした側の方が、してもらった側よりも、その意味を重くとらえている」

ということです。

彼女の、「果物を送った」という行為と、

私の、「果物を送られた」という行為は、

同じことを別方向から見ただけのようですが、

心理的には、

彼女にとっては、「自分の中での意味が比較的大きい=お礼をすぐに言われたい」

私にとっては、「自分の中での意味が比較的小さい=お礼は遅れても大丈夫」

という違いが生まれていたのです。

このことは、日常的によく起こりうることだと思います。

例えば、人間関係上、誰かが誰かに何かを贈ったり、
時間を費やすという ことはよくあります。

この場合、相手のためにその行為をした側は、

「相手のために良いことをした」
「感謝されるだろう」

と思いがちになるかもしれません。

しかし、その相手の方は、
案外、それほど大きく捉えていなかったりします。

そのため、何か好意的な行為をした側は、

「恩知らずだ」
「もっと感謝してくれてもよいのに」

と考え、わずかな心の確執が生まれることがあります。

昔からの格言で、

「受けた恩は石にきざめ。与えた恩は水に流せ」

という言葉がありますが、

これも、「人は、受けた恩は小さく捉え、与えた恩は大きく捉える」

ということからの智恵なのでしょう。

ですから、自分が与える立場になった時は、

相手が自分ほど大きく捉えていないと考え、

与えられる立場になった時は、

相手に感謝を伝え、その恩を返すようにする。

ということをしていこうと思っています。

それが、今回の学びでした。

「人に何かをした側の方が、してもらった側よりも、その意味を重くとらえている」

このことを深く実感することが、

人間関係を良好にするための、一つの知恵なのかもしれません。

 
 
 
 

あなたの周りの人のことを知るための二つの質問

今回は、 「あなたの周りの人のことを知るための二つの質問」を紹介したいと思います。

誰かのことを知ることは、その人への理解が深まり、人間関係が円滑になるのはもちろん、個人としても人生が豊かになるような気がします。

とはいっても、ここでお話しできるのは、心理学的実験を通して得られた知見ではなく、あくまで私の実体験から生まれた「仮説」に過ぎません。ですから、これから述べることはあくまで、会話のネタ程度に思っておいてください。
ただし、経験上、9割以上の確率で当たっています。

一つ目。

「好きな言葉・座右の銘」

あなたの周りの誰かに、「好きな言葉・座右の銘」を聞いてみてください。
何かしらの回答が出てくると思います。

普通、「好きな言葉・座右の銘」はその人を表していると思われがちですが、

実は、その「好きな言葉・座右の銘」は、その人が「改善したいと思っている点」のことが多いです。

例えば、何事においても「最後の詰めが甘い」と自覚している人は、「勝って兜の緒を締めろ」いう言葉を好んだりします。

人は、自分の欠点をある程度認識していますから、多くの人はその欠点を直したいと思っています。
そのため、その思いが無意識となって、「好きな言葉・座右の銘」として表面化するのではないか・・・。私はそう考えています。

二つ目。

「食べ物の好き嫌いが多いかどうか」

食べ物の好き嫌いの多さというのは、大体が幼少期に決まってしまいます。そして、幼少期というのは人格形成に大きな影響を及ぼします。

このような知識は以前から知っていたのですが、ある時、私は食べ物の好き嫌いにある傾向が隠されていると気づきました。

食べ物の好き嫌いは、人の好き嫌いと同じなのです。

食べ物の好き嫌いが少ない人は、人の好き嫌いが少ない、ということです。

逆に、食べ物の好き嫌いが多い人は、もしかしたら、人の好き嫌いが多いかもしれません。

食べ物の好き嫌いというのは、ある種の「寛容さ・ワガママの程度」を示しますから、

食べ物の好き嫌いがはっきりしている人が、人の好き嫌いがはっきりしているのも、納得が出来ることかもしれません。

以上、「あなたの周りの人のことがわかる二つの質問」をご紹介しました。

人間は様々な面を持っているので、その人の一部分だけを知って全人格を判断するのはできないですが、

部分からしか全体を判断できないのも、また真実だと思っています。

今回の話が、何かのお役にたてていただければ光栄です。

目一杯食べてますか?




一切ノ疾病ハ宿食ヲ本トス


釈迦の言葉らしいです。

たしか、一昔前に流行った「夢をかなえるゾウ」?という本に書いてあり、
印象深かった記憶があります。

簡単に言うと、食べ過ぎは色々な病気を引き起こすので、腹八分にしとけということです。
たしかに食べ過ぎは眠くなり集中力が下がるし、糖尿病などのリスクも高いです。
まあ、今ではこういったことも一般常識となってますが、飽食の現代で腹八分の実践を継続することは結構難しいです。

これは単純に食生活から健康に気を付けていきましょう!
ということではなく、食べたい欲求を抑えて、徐々に自分で自分をコントロールするのが楽しくなってきたら、生活が変わりますよー 
という話です。

セルフコントロールを行うには、まずは最も身近な食欲を自制(コントロール)することから始めてみましょう。

とはいえ、計算に基づくダイエットで、カロリーがいくつだとか、もう食べちゃいけないだとか神経質になりすぎるのも、
どうかと思いますので、個人的には腹八分を意識する程度でも効果はあるのかなと。


さて、新宿オフィスは男メンバーでお昼をとることが多く、食べ放題もよく行きます。
バイキング形式は人間性があらわれ、人となりが本当によくわかります。

最近では1日インターンの方の選考基準の一つとしても取り入れております。笑

正しいことの判断基準

鈴木です。

マイケル・サンデル教授の「これからの正義の話をしよう」を読んでいます。

毎週土曜日、妻子のダンスレッスンの待ち時間に、
ファミレスで読んでいるので、1時間ずつじっくり熟読できます。


正義を決める基準は、3つあり、
「幸福」「自由」「美徳」となっています。

正しいことは、何か1つの基準で判断している、または判断すべきと思っていたので、
目から鱗の視点でした。

本のなかでは、事例がたくさん挙げられていますが、
私なりに理解したので、自分で事例を作って考察してみました。

身近な家庭内のトラブルの話です。

娘が帰ってくるなり、上着をリビングの床に置いて、
夕食を食べ始めたシーンです。

母親は、「通れないから先に片づけて」と注意します。

娘は、「後で片付けるから!」と言い返します。

父親は、「床に服を置くもんじゃない」と叱ります。

この3者の正しいことの判断基準が異なるのです。

母親は、家族みんなのために、最大多数の最大「幸福」を基準とします。
本人がすぐに食べたくても、それによって、迷惑する人もいるなら、
本人は、周りの人に配慮して、先に片づけるべきだという論点です。

娘は、大きな迷惑をかけているわけでもないし、食べ終わったらすぐに片づけるんだから、それまでそのままでも問題ないという考えです。
個人の「自由」を判断基準としています。

父親は、いいとか悪いとかの問題でなく、そもそもマナーとして正しくないから、
それは改めるべきだと考えています。判断基準は「美徳」です。

判断基準が同じであれば、議論は深まります。
例えば、最大幸福を追求するのであれば、どちらの幸福が大きいのかを算出していくこともできるでしょう。
双方の自由が基準であれば、どちらがより自由かという議論は、一定の納得感をもって、収束していくでしょう。

ところが、判断基準が異なる3者の視点は、交わりません。
いわゆる平行線の議論が続くことになります。

一言でいうと、どちらも正しいので、間違っている人がいない訳です。

しかもややこしいことに、その3つの判断基準は、ひとりの人間のなかでも
状況によって、違う基準が発現します。

次の事例は、
父親がベランダで喫煙していることについて話すシーンです。

娘 「ベランダで吸っても、家がタバコ臭くなるから、止めてほしい」

父親 「気をつかってるんだし、タバコくらい自由に吸わせてくれよ」

母親 「自分や家族の健康のことを考えない姿勢が父親として良くない」

これは、娘が「幸福」、父親が「自由」、母親が「美徳」の基準で、
正義を判断しています。

どうも、人間は、3つの判断基準をその場の状況に応じて、使い分けて、
何が正しいかを判断しているようです。

これでは、人間社会でトラブルが起こったりすることは、当然といえば当然ですよね。

それでも、その3つの基準をどれか一つに絞ることもできないという現実もあります。

どの基準も、人間にとって大切だからです。

今、自分たちにできるのは、
自分が正義だと感じたことは、どれか一つの判断基準に基づいて判断した正義であって、絶対的な正義ではないということを理解することなんでしょう。


自分が、
「そんなことして誰が得するのか」
「その行為は社会に反している」
「あなたは迷惑をかけている」
と感じた時、自分は「幸福」で判断しているので、「自由」と「美徳」の視点を受け入れる必要がある。

「そうすることの自由は、保障されてもいいのではないか?」という自由の視点
「そういう生き方も素敵じゃないか」という美徳の視点

自分が、
「あれこれ指示されたくない」
「価値観を押し付けられるのは嫌だ」
「文句を言われたくない」
と感じた時、自分は「自由」で判断しているので、「幸福」と「美徳」の視点を受け入れる。

「みんなの迷惑も考えたほうがいいのではないか」という幸福の視点
「それはマナーとして認められない」という美徳の視点

自分が、
「それは人としてありえない」
「父親としてどうかと思う」
「嘘をつくのは良くない」
と感じた時、自分は「美徳」で判断しているので、「幸福」と「自由」の視点を受け入れる。

「誰がどれくらいメリットを得るのか、またデメリットを受けるのか」という幸福の視点
「どう発言するかは、基本的に、その人の勝手」という自由の視点


こう考えてみると、何か自分が正しいと思って、怒ったりしていることは、
複合的な視点を欠いた一人相撲のようなものなのかもしれませんね。

 

全社ミーティングを終えて


先日、大阪オフィスで開かれた全社ミーティングに参加しました。

全社ミーティングに関してのブログでは、経営理念やビジョンについて
書かれている方が多いので、それ以外について書きたいと思います。

<タイムマネジメントはスピードを上げること>

今回の全社ミーティングでは、「タイムマネジメント」が議題の一つでした。
全社ミーティングでは「誰が、どのようにタイムマネジメントを指導するか」
など具体案が議論され、とても有意義な時間になったと思います。

そのうえで、この件に関して私の頭にしばらく浮かんでいるのは、
「タイムマネジメントはスピードの問題ではないか」という考え、仮説です。

「タイムマネジメント」とは、結局のところ、
「期日通りに仕事を完了させる」ことを
目的にしていると思うのですが、そうであるならば、
端的に「スピードを速くする」ことに行き着くのだと思うのです。

「タイムマネジメントはスピードの問題である」と考えれば、
仕事のスピードを上げれば、タイムマネジメントが
上手く出来ないという問題が解決するのかもしれません。

個人的な経験で考えてみても、会社の速いスピードに追いつくために、
入社してからは「スピードを上げること」を意識して取り組んできました。

もちろん、まだまだ改善の余地は大きくあるのですが、
思考のスピードを上げる毎日の訓練、再利用フォルダの活用、
業務ツールのテンプレート化などのスピードを上げる様々な工夫を通し、
少なくとも入社当初よりは、会社のスピードについていけるようになったように思います。

結果、以前は頭の片隅にあった「タイムマネジメントを上手くしなければ」
という概念を気にすることはなくなりました。

ただただ、「スピードを上げる」ことを徹底する。

それだけで、仕事は上手く回るようになるかもしれません。

ビジョンの更新

各オフィスから代表メンバーが集まって、大阪オフィスで全社MTGを行いました。

そのなかで、「3年後のビジョン」は、最も時間をかけて、じっくり協議しました。

前回と大幅に変わりましたが、これからは、このビジョンに向けて、
全員でベクトルを合わせて、進んでいきます。



■3年後のビジョン

<人材育成>
社員全員がリーダーシップを発揮している
全体最適で行動できるチームになっている
切磋琢磨し、妥協しない社風を醸成している

<会社の成長>
ナンバーワンの専門業務を10分野もっている
社会の流れの先端事業を支援している
さまざまな人が活躍できるプラットフォームが整備されている

被害妄想は簡単に起きる

娘達が小さい頃の話だ。
「カバンを貸してくれれない」
「写真を見せてくれない」
「ケーキを一口くれない」

姉妹や友達から、イジワルされたと感じて、怒っている。

自分の思うように物事が進まないとき、
特に、相手が自分の思うようにしててもいい状況なのに、そうしてくれないとき、
人間は、イジワルされたと被害者のように感じるようだ。

自分の思うように進まないことは、確かに不快だ。
不快な原因の一つである相手の行動も不愉快だ。

だから、相手に対して、怒ったり、批判的な言動をしたりしてしまう。

でも、ここで改めて考えたい。


カバンを貸すかどうかは、相手が決めること。
写真を見せるかどうかは、その人が自由に決めること。
ケーキを一口あげるかどうかは、相手が自分の感情に沿って決めること。

そして、その行動の理由を説明するか、まったく説明しないかも相手が決めること。


自分が不都合な状況になったときに、
人は、その状況を打破するために、相手を意のままに動かそうとする。
笑顔で頼んでみたり、それとなく伝えてみたりする。

そして、それでも埒が明かないと、
強く言ったり、批判したり、脅したりして、
だんだん手段を選ばなくなっていく。

本来は、相手が決めるべきことについては、
相手の意思を尊重するべきで、相手がどのような言動をしたとしても、
そのことを自分はどうこう言えない。

カバンを貸してくれなくても、そのことに怒ってはいけないし、
「何で?」とその理由をしつこく聞くこともしてはいけない。

自分がするべきことは、
他の人にカバンを借りる努力をするか、借りること自体を諦めるかだ。

娘達が、イジワルされたと感じるたびに、
それはイジワルではない。そもそも相手が自由に決めていいことなんだよ。
と説明して、受け止め方を修正してきた。

人間は、そんなところで被害者意識を持ってしまって、
被害妄想に陥ってしまいやすいんだと知った。

社員の負担を減らす

社員の負担を減らしていくことは、経営者の大切な役割だと感じている。

仕事は、ほっておくと、どんどん増えてしまい、
それに伴って、社員の業務負担も増していく。

各人に合った業務量を把握し、
少ない場合は、新たな役割を与えて、成長機会を増やし、
多い場合は、業務流入を止めたり、他の人に移管したりしている。

私は、社員に「今、何割くらいかな?」と聞くことが多い。
その人がやっている業務量だけでなく、
その人のキャパシティに対して、どのくらいの業務量となっているかを理解する。

業務量が少ない新人でも、意外と負担感があって、
9割と答えることもあるし、
2人分の業務をこなしているにも関わらず、
6割くらいとさらっと答えるベテラン社員もいる。

会社全体の仕事量を増やし、売上をアップさせながら、
社員一人ひとりの負担を減らしていくのは、なかなか難しく
自分にとって、ここ数年にわたるチャレンジになっている。

社員の負担を減らすことは、簡単にはできない。

例えば、いつでもメール一本で休みを取れるようなルールにすることは、
本人にとって、気軽に休みが取れて、負担が少なくなる反面、
休みのフォローをする、本人以外の社員の負担を増やしてしまうことになり、
会社として、社員の負担を減らすどころか、
社員の負担を増やしてしまう結果になってしまう。

ミーティングの時間を減らすこともそうだ。
必要な情報の共有ができていなければ、無駄な仕事やトラブルが増え、
見えない形で、負担が増大してしまう。

つまり、部分的、一時的に合っていると思われることも、
全体的な視点で見ると、合っていないということが起こる。

目の前の課題に向き合って、改善策を模索し、
その改善が、多方面にどのように連鎖していくのかを想像する能力が必要になる。
そんな能力をもっと伸ばしていきたい。

オールスター経営へ好循環を作りたい

30名の当社にも、
育児、看護、介護、病気、試験勉強などさまざまな課題に対応している社員がいる。

まあ、社員全員が何らかの課題に対応している状況で、
仕事だけしていればいいという人はいない。

考えてみれば、社会人生活のなかでは、
常に、仕事以外にも2つか3つの課題を抱えているのが通常だ。

対応すべき課題を持っていることは、必ずしも仕事にマイナス効果ではなく、
取り組み方によっては、プラスの相乗効果になることも多い。

私の場合は、子育てと持病という課題を持っているが、
そのことは効率的な仕事の仕方に移行することに繋がったし、
いろいろな人が働きやすい職場環境を作ることにも役立ち、業績も上がった。

課題への積極的な取り組みは、その人の問題解決力を飛躍的にアップさせ、
その人の魅力となっていく。

一人ひとりが、自分の能力を存分に発揮し、
社員全員が違う色で輝く「オールスター経営」を目指していくうえで、
その人の課題を長所や魅力に変えていく好循環を作ることが大切だと考えている。

相手の価値観で考える

鈴木です。
すがすがしい月曜日の朝ですね。

行政書士の業務をしていくなかで、
どんな人が業績がいいのか、じっくり見てきました。

いろいろな要素があるなかで、最も重要な要素は、
「共感力の高い人」だと気づきました。

期日に追われることもあるし、ギリギリの交渉をすることもあります。
そんな逆境でも、お互い気持ちを一つにして、進んでいく。

そんな人が、顧客にとって、満足度の高い仕事をして、
さらに大きな契約を取ったり、友人を紹介してもらったりして、
驚くような業績を残していきます。

そんな経験から、当社では、「共感コンサルタント」を採用のキャッチコピーにしました。
実績を売りにするのではなく、ノウハウを売りにするのではなく、
共感する能力を軸としたコンサルタントを養成していきたいと考えるようになりました。

そうしたなかで、私も共感とは何か深く考えるようになり、
気付くことも増えてきました。

昨日の朝は、自宅で娘とこんな話をしました。
「相手の立場に立って考える」と「相手の価値観で考える」の違いと何か?

似ているようで、本質的に違う思考です。

ショッピングに行って、「どっちの色がいいかな?」
とアドバイスを求められたときを想定してみます。

「相手の立場に立って考える」思考では、
「私だったら、青がいいかな」と答えます。

「相手の価値観で考える」思考では、
「あなたが気に入って、着るのは、赤だと思うよ」と答えます。

つまり考える主体が、自分なのか相手なのかが違います。

「相手の立場に立って考える」ことは、そう難しくありません。
小学生の頃から教えられ、自分が相手の立場になったことを想定して、
そのときに自分なら、どのように感じるか、考えるかを想像します。

対して、「相手の価値観で考える」ことは、簡単にいきません。
相手の価値観を知り、相手の価値観を基準に、その状況での判断をします。
自分の価値観を抑える必要もあります。

人生は、常に選択の連続なので、周りの人から助言を求められることがあります。

「大学に進学したほうがいいのか?」
「夢をあきらめず、まだ追いかけていいのか?」
「この人と結婚するほうがいいのか?」
「今、家を買うほうがいいのか?」

助言を求める人は、自分がどうすることが自分にとって最適なのかが聞きたいのです。
自分の立場になった時に、他の人がどのように行動するかの参考意見を聞きたいわけではないのです。

「自分なら大学には行っとくかな」
「もういい歳だし、夢は諦めたら」
「私なら、その人とは結婚しないかな」
「俺も買ったし、買うなら今だと思うよ」

見当違いの助言にならないように、気を付けたいものです。

 
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